【コラム風日記】東京はお金と夢を持つ人だけが住める街

東京に来てもうすぐ8年になろうとしている。

関西の大学を卒業して就職もせずに上京した。

あの頃は勢いだけで生きていたし、なんでも即決で行動していた。

上京するきっかけは、お笑いをするため。

「お笑いをするんだったら関西でよくない?大阪でやれよ!」とどこから聞こえてきそうだ。

これには自分なりに理由があって、まずはなぜお笑いに興味を持ったかそこから説明したいと思います。

興味なければ飛ばして下さいな。

僕は京都に生まれて、小さい頃からお笑いがとても好きだった。

関西はとても特殊な地域だと思う、毎日どこかしらのチャンネルでバラエティをやっている。土日の昼の新喜劇から始まり、深夜も夜の深い時間帯までバラエティ番組を放送している。

そんな土地柄か、学校で人気になるやつは面白いやつに限定されていた。かっこいいよりも面白いやつがモテるんだ、なんていいところなんだ!

僕は小学校二年の時にはお笑い番組を見ては翌日に真似して披露していた。
お世辞じゃないが面白いほうだと本気で思っていた。

当時僕が真似していたのは、さまぁ~ずの三村さんのツッコミだ!我ながら渋いチョイスをしていた。

学校に行っては、「○○かよ!」と関西人なのに標準語でツッコんでいた。

中学になるとお笑い好きは益々加速していった。

深夜ラジオを聞き、当時内村プロデュースという番組が深夜でやっていて、出演者が我先に大喜利を答えていくあの番組。

とてつもなく魅了された。

どうしてもやってみたいと思うようになり、仲の良い友達10人を集めて、さも自分が内村さんになったかのように、大喜利のお題を出しては、面白いやつに10ポイント!!と、偉そうに声高らかに叫んでいた。

そんな学生時代が続き、本当にお笑いをしたいと思ったのはM-1グランプリに出たあとだったかな。

実は僕には双子の弟がいて、弟もお笑いが好きだった。
高校3年の頃弟と軽い気持ちでM-1に出場した。めちゃめちゃ自信があったし、自分達は面白いと思い込んでいた。

まぁでも、今思えば、よくやった方だと思う。
舞台も出たことがなくて、ネタも作ったことのない高校生の初舞台がM-1グランプリ。当時の僕たちの行動力には敬意を表したい。

案の定初舞台は鬼滑り。

あの時の光景は今でも鮮明に覚えている。
緊張で身体中が震えていたし、どんなネタをしたのかは忘れたが一瞬だった。
かろうじて受けたひとつのボケに全て救われていた。

普通ならあんなに滑った負のイメージを持つとお笑いが嫌いになりそうだけど、ここが自分達は違った。

受けるまでやりたい!と思うようになって、お笑いを始めるようになったのである。

お笑いを始めるといっても当時の僕はどうしていいかも分からなかった。

まず、最初に思い付いたのが吉本の養成所に入ること。
自分で慣れないインターネットで情報を集めた。
そこで最初の壁が立ちはだかった。

吉本の養成所NSCというところは学費が40万円いると言うのだ。

大学一年生になっていた僕だったが、バイトも全然しておらず、40万円の大金を集めることは不可能だと判断した。
次に親に払ってもらうという手段も取ってはみたが、親父にアホか!で一蹴された。

そこで、考えたのが松竹芸能だった。
松竹芸能は学費20万円で、当時学割が使えて、全部で10万円で養成所に入ることができた。
とても良心的な事務所だと思った。

まぁ結局10万円も貯めることはできず、少なからず僕たちの味方だった母親が全額学費を出してくれた。
本当に感謝している。

そんな経緯があって、松竹芸能の養成所に入所をはたした。

今思えばお笑いを始めた最初にしてはとてもいい経験をさせてもらっていた。

お笑いを初めてすぐだったのに舞台も立てて、奇跡的に一位を取ったライブもあった。

当時は通天閣劇場というところで松竹芸能は寄席を開いていた。毎週手伝いに行っては海原はるかかなた師匠や酒井くにおとおる師匠にお茶を汲んだり、たくさんの芸人さんを近くで見れた。とてもいい経験をさせてもらった。

ライブのMCをさらば青春の光さんがやってくれたり、ますだおかだ増田さんの草野球チームに所属させてもらったり、一年目のぺーぺーにはとてもいい経験だった。
その影響もあってか大学には全然行かなかった。

今思えば、当時近くにはすごいかたがたくさんいた。

プリンセス金魚さん、さらば青春の光さん、恋愛小説家さん(現シンプル)、百足さん(現ゆんぼだんぷ)、しんいちけんじさん(現お見送り芸人しんいち)、同期には現大阪吉本の黒帯、半期下にはAマッソ、ヒコロヒーと今をときめく芸人がたくさんいた。

自慢じゃないが、Aマッソ、ヒコロヒー、黒帯と何人か
と須磨海岸に行ったのを覚えている。今や誰も覚えていない思い出だけど。

そんな恵まれた環境もネタが受けない時期が続いて、あるライブ前に大喧嘩をして、解散してしまった。
結局一年程でお笑いを辞めてしまった。

ちなみに当時のコンビ名は御和(おなご)数字にすると075。京都の市外局番だ。コンビ名だけいっちょまえにお洒落だった。

そんな短いお笑い生活に一時終止符を打ち、大学生をしていたのはいいが、全然たのしくなかった。友達が一人もできなかった。行かなさ過ぎて、すでに出来上がった輪の中に飛び込む勇気も気力もなかったのだ。

結局残りの大学生活は単位を取ることだけに必死になり、残りはお笑いのネタを見たり書き起こしたりとお笑いに未練たらたらの行為を繰り返していた。

そして、大学卒業後やはり、お笑いに未練があり、親を説得しきれずに東京へと一人やってきたのである。相方であった弟は京都で就職した。

ほとんど東京へ逃げたという表現が正解だったかもしれない。

23歳で東京に来てとても楽しかったし、新鮮で自由過ぎる毎日を送っていた。
ひとまず、バイトをしつつ、お笑いネット掲示板で相方を探した。

ほぼほぼ出会い系サイトのようで相性の良さそうな相手を直感で選ぶ。

ネット掲示板なんで、変なやつとも何人か会ったけど、三回目にして奇跡的な出会いが訪れた。

彼の名は太田、僕と同い年で誕生日も数日違うだけだった。初めて会ってからはすぐに意気投合し、東京での初コンビ【遊びの時間は終らない】を結成した。

コンビでいろんなライブも出たし、たくさんの出会いもあった。ライブで優勝できたり、すごい先輩とライブで共演できたり、この頃から先輩や、友達とルームシェアを始めて、毎日毎日本当に楽しい日々だった。

コンビ活動は楽しくはあったが、結果がなかなか出ずに二年頑張ったが残念ながらまたもや解散してしまった。
最後に単独ライブをできたことは、東京へ出てきて一番の思い出だ。

この時僕は25歳になっていた。

回りには30歳までに目に見えた結果を残してないと辞めると宣言していた。

ちょうど半分、もうちょっとやれる!そんな思いで、東京吉本に行くことを決意した。

26歳になる年に東京NSCに入学した。

ここでもいろいろな出会いがあった。

同期に出会えたし、一番は中田カウスボタン師匠の前でネタができたこと。緊張した。

とても刺激的な毎日だったと今は思う。

吉本に入って、コンビは三回ほど組んだ。

在学中は、シャナナ、所属してシャレナランというコンビを組んだ。

シャレナランというコンビを組んだ2年間は本当に精力的にライブに出ていたと思う。

特に毎週、若者の街原宿で若い子の前で1日三回もネタをした。濃い一年半だった。

応援してくれる人も少なからず増えて、初めてM-1グランプリ二回戦にいけた。

たかが二回戦かと思われるけれど、とても嬉しかった。

2年間苦しみながらも頑張った。
結果はなかなか思うようにはついてこなかったけど、充実した二年間だった。

その後はメンタルがやられてしまい、お笑いが嫌になってしまった。

と同時に母親の体調も悪化して、一体なにをしているんだと自分を責めたりもした。

シャレナランを解散して一瞬だけ、NSC首席のマサルコとも組んだが、メンタルの弱っている自分はどうしてもモチベーションが上がらなかった。

マサルコには本当に申し訳ないことをしたなと思っている。

その後は吉本を退所し、芸人活動は皆無だった。

仲の良い先輩のライブを見たり、手伝ったりしたが、舞台からは遠退いた。

そして、今年元号も令和に変わり、30歳になる年。

上京した当初の30歳でなにも結果が残せなければ辞めると言っていた年になった。

僕は決断を迫られている。

そして、25歳の時から付き合っている彼女になんの保障もないのにプロポーズまでしてしまった。

夏には全てを精算して、京都に帰るつもりだ。

それまでやり残したことを全部やって、今までお世話になった人に挨拶をしよう。

今まで世話になった方々本当にありがとうごさいました。

頑張ったけど、才能がなかった。

お笑いは廃業。次のステージで僕は金持ちになるよ。

まだ人生は1/3程度、これからが長いのだ。

マイペースで紆余曲折でいいじゃないか。

スローリーマイロード。

 

僕が経験した東京とはお金と夢を持つ人だけが住める街だった。

 

 

(ぃゃこれ誰が読むねん!)